短編私小説 『池袋の雑踏の中で』 金村 圭介

3月12日の17時過ぎ。僕は池袋の雑踏の中を歩いていた。
日本でも有数の繁華街の休日。
老若男女が、まるでブラウン運動のように、規則性を持たずに足早に歩いている。
池袋の中を雑然と歩く匿名の人々。街全体と何か調和している。
しかし、彼らも1人1人血の通った人間。当然悩みだって抱えている。
僕も大きな悩みを持った1人であった。
この日は、福岡から東京に旅行へ来て2日目。
ホテルに向かい、大浴場で風呂に入りさっぱりしてから楽しみにしていたWBCを観戦する。
その前にご飯は何を食べようか?
本当であれば、ワクワクが止まらない時。
しかし、僕はある1つのことが、心に引っかかっていた。
旅行の前々日の3月9日。
僕は、ブログで早期セミリタイアの計算シートとブログで発表した。
エクセルで必要事項を入力すると、その年齢でリタイアが可能がどうか判定できる。
渾身の作品だ。
すでにツールを使った数人から、感謝するコメントも来ている。
僕はこのツールを作って以来、自分で様々なシミュレーションをしてみた。
発表した早期セミリタイア計画の改訂版では、34歳のセミリタイアをしているが、もっと色々なパターンを自分で試してみる。
すっかりこのツールの虜になってしまったようだ。
暇さえあれば、別のパターンを試してみる。
何回も、何十回もこのツールを使って、僕は奇妙な感覚を覚えた。
ワンクリックで数字を操作するだけで、結果は大きく変わってくる。
例えば、運用益を0.5%上げると、セミリタイアの年齢が1年違ってくる。
たった一瞬の操作だけで・・・
思えば、この1年は結構辛い年だった。
4月に職場を異動して、全く未経験の仕事をすることになった。
元々、物覚えや理解力が低い上に、しっかりとした教育体制も整っていない。
異動当初には、相当戸惑った。
分からないことを周りに質問して、教えてもらってもいまいち理解できない。
極めてあやふやなまま、やむを得ず事務処理をする。
こんなのでいいんだろうか?何か大きな失敗をしているのではないだろうか?とんでもないことになってしまうのではないか?
そんな思いが頭を駆け巡り、心が晴れる時がなかった。
これが最初の1ヶ月間続いた。
その後も、折に触れて仕事で悩むことがあった。
夏ぐらいには少し慣れてきたが、冬には繁忙期があり、2週間連続で休日出勤もした。
何とか1年間を乗り切ったが、しんどい1年だった。
たぶん、この経験を僕は一生忘れることはないだろう。
思い出せば、いくらでも苦労話ができる1年間。
その1年間を、運用益を0.5%上方修正するというワンクリックの作業で、まさに無くしてしまえる魔法を僕を得たのかもしれない。
じゃあその魔法を使える条件は?
それはもう、勢いだけなのかもしれない。
勢いでエイヤッと運用益を2%にしてしまえば、今すぐのリタイアだって可能だ。
2%なら十分にありえる数字だ。
僕はこれまで慎重に人生を生きてきた。
勉強だってコツコツ頑張ってきたし、仕事も嫌々ながらも9年間続けてきた。
いい大学に入り、いい会社に入り、新卒の会社で働き続けるという確実で、地に足の付いた選択をしてきた。
しかし、最後は一瞬の勢いで、人生が決まるんだろうか?
決めてしまっていいのだろうか?
人生ってそんな行き当たりばったりのものなのか?
この雑踏の人々も勢いで生きているのだろうか?
しかし、これは当然の帰結だ。
早期セミリタイアツールを作った以上、僕の人生は方程式に置き換わってしまう。
そこでは、数字こそが絶対善であり、全てが数字だ。
方程式のXを書き換えることによって、解は全く別物になる。
それも一瞬で。
どうやら、僕はパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。
そして、もう後戻りはできない。
この方程式に向き合い続けなければならない。
答えのない複雑方程式を目の前に、僕は極めて平静を装い、池袋の中をホテルに向かって歩いていた。
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